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第42話 八年前の澄花のメモ

Author: なつめ
last update publish date: 2026-08-29 22:18:07

 〈八分十三秒を消した人が、ここにいる。〉

 鉛筆を深く食い込ませた一文の前で、六人は誰も声を出せなかった。

 隠し部屋の低い天井では古い蛍光灯がかすかに唸り、壁いっぱいに書かれた澄花の文字へ黄色い光を落としている。

 壁紙の下から現れた記録は、一人の高校生が恐怖に耐えながら残した走り書きなどという量ではない。

 日付、時刻、聞こえた足音、壁の中を移動した人物、二〇三号室の様子、返し雛について調べたことまで、空いた場所を探して書き続けた痕跡が三畳ほどの部屋を埋め尽くしていた。

「最初から読む」

 蓮司の声は低かった。

 妹が八年前に立っていた同じ床へ膝をつき、壁へ触れない距離まで顔を寄せる。

 その横で朔がカメラを構え、美月は日付ごとに記録を整理するため手帳を開いた。

 悠斗と奈々香も離れず、澪は壁際に立ったまま、澄花がこの場所でどんな順番で文字を書いたのかを追うように視線を動かした。

 もっとも古い日付は、七刻女学校から澄花が生きて出てきた翌日だった。

 人形を返しに来た。

 でも、置いても戻ってくる。

 短い文章の横には、二〇三号室の簡単な間取りが描かれている。

 畳の中央に丸印があり、そこから押し入れ、台所、浴室へ矢印が延びていた。

 丸印の脇には〈朝 押し入れ〉、〈昼 玄関〉、〈夕方 布団〉と書かれている。

「返し雛を置く場所を変えたのか」

 悠斗が呟いた。

「たぶん」

 澪は矢印を追った。

「どこに置いても、別の場所に戻った」

 自分たちが目の前で経験したことと同じだった。

 透明ケースへ封じても、現実では澪の布団へ移り、映像の中だけは元の場所へ残る。

 八年前の澄花も、同じ現象に遭遇していたことになる。

 蓮司が次の日付へ光を移した。

 壁の中に男がいる。

 学校にいた人と同じかは分からない。

 文字の横に、細い人影が描かれていた。

 背が高く、片手に四角いものを持っている。

 顔には何も書かれていない。

「杏奈さんが言っていた管理人の息子?」

 奈々香が訊く。

「時期が合わない」

 蓮司は首を振った。

「杏奈が逃げたのは十二年前。その男はその直後に消えている。澄花がここへ来たのは八年前だ」

「別人」

 美月の声が硬くなる。

 初期の常世荘で女性を盗撮していた男がいなくなったあと、四年間、目立った失踪は途絶えている。

 その後、澄花が二〇三号室へ現れた年から、壁の声や人形の訴えが再び始まった。

 隠し部屋の設備も途中で更新されている。

 誰かが最初の男が残した空間と方法を引き継いだという推測が、壁の記録によってさらに現実味を帯びていった。

 澪はその下の文章を見つけた。

 昨日の映像を見せてもらった。

 私が覚えているものと違う。

 息が浅くなる。

 七刻女学校の映像。

 八年間、何度も自分たちを惑わせてきた記録だった。

 次の行は、少し大きな字で書かれていた。

 映像では、私は一人で準備室に入っている。 

 違う。

 誰かに押された。

 奈々香が小さく息を呑んだ。

「私たちが見た未編集映像でも、押されてた」

「今夜見つけた映像はな」

 朔が答える。

「警察へ提出された映像が同じだったとは限らない」

 澪は朔を見る。

 七刻女学校で見つかった古いビデオテープには、澄花が理科準備室へ押し込まれる瞬間が映っていた。

 しかし、澄花がここで見せられた「昨日の映像」では、一人で準備室へ入ったことになっていた。

 つまり八年前の時点ですでに、同じ夜について少なくとも二種類の映像が存在していたことになる。

「誰が澄花に映像を見せたの」

 美月が問う。

 答えは少し下にあった。

 カメラを持っていた人が二人いる。

 六人の呼吸が止まった。

 澪の視線が、無意識に朔へ向く。

 八年前の心霊研究会で撮影を担当していたのは神代朔だった。

 集合写真でも、廃校へ入る映像でも、朔はカメラを持っている。

 誰もがそう記憶している。

 だが澄花は、二人いたと書いている。

 悠斗が壁へ近づいた。

「その下」

 さらに文章が続いていた。

 一人はみんなが知っている人。

 もう一人は、誰にも紹介されていない。

 奈々香の顔から色が失われる。

「八人目……」

 七刻女学校の校門を映した今夜の映像。

 六人の生存者。

 その後ろを歩く制服姿の澄花。

 さらに木立の陰から現れ、七人を追って校舎へ入った黒い雨具の人物。

 映っていたのは八人だった。

「澄花は八年前から見てた」

 澪の声が掠れる。

「私たち以外の人がいたことを」

「なら、八年前に妹を押した人間も、そいつかもしれない」

 蓮司が言った。

「腕時計だけなら七人全員が同じものを持っていた。服や体格も映っていない。外部の人間が時計を手に入れていたなら、俺たちの誰かに見せることもできる」

 悠斗の声には、自分へ向けられていた疑いを押し返そうとする響きがあった。

「でも、その人物を誰が連れてきた?」

 美月が静かに問う。

「誰にも紹介されてないなら、七人のうち誰かは知ってた可能性がある」

 空気が冷えた。

 外部の八人目が勝手に七刻女学校へ現れたのか。

 それとも、心霊研究会の誰かが秘密で呼んでいたのか。

 澄花だけが存在に気づき、ほかの六人は知らないままだったのなら、その人物は最初から見つからないよう動いていたことになる。

 奈々香が朔を見る。

「撮影の手伝いとか、呼んでないよね」

「呼んでない」

「会社の人も?」

「高校生の頃だ。今の会社とは関係ない」

「機材を借りた相手は?」

 朔はわずかに黙った。

「一部は中古で買った。三脚と予備電源は知人から借りたものもある」

「誰から」

「高校の卒業生だった映像関係者。だが当日は来てない」

 蓮司が即座に名を聞き、朔は答えた。

 蓮司は記録するだけで、それ以上は追及しなかった。

 澪は壁の文字へ戻った。

 日付が次へ進む。

 文章は少しずつ乱れていた。

 人形のことを調べた。

 返し雛は、持ち主のところへ帰る人形じゃない。

 「返す相手」を覚える人形。

「返す相手……」

 澪は呟いた。

 持ち主へ戻るのではない。

 元の場所へ戻るだけでもない。

 返す相手を覚える。

 その表現は、返し雛という名の意味を根本から変えていた。

 美月が壁の続きを読む。

殺された人の記憶を――

 そこで文章は途切れていた。

 鉛筆の線が途中で壁を引っかき、斜め下へ長く伸びている。

 書いている途中に手を掴まれたか、突然立ち上がったような跡だった。

「続きがない」

 奈々香が周囲を探す。

 同じ高さの壁。

 床際。

 机の裏。

 どこにも文章の続きは見つからない。

「破られたノートの頁に書いた可能性もある」

 美月が言う。

「それを誰かが持っていった」

 蓮司は顎を強く結んだ。

 妹が答えへ近づくたび、その先だけが八年間消され続けている。

 七刻女学校の八分十三秒。

 常世荘のノートの欠落。

 テレビ映像の途中。

 今度は壁の文章まで、もっとも重要な箇所で途切れていた。

「殺された人の記憶を、どうするんだ」

 悠斗が低く呟く。

「集める?」

 奈々香が言った。

 澪は序盤から聞いてきた噂を思い返した。

 返し雛は、殺された人間の記憶を集め、最後にその記憶を犯人へ返す。

 その説明を誰から聞いたのか、八年前には曖昧だった。

 もし澄花自身がここで調べ、まだ完全には答えへ至っていなかったのなら、現在流布している返し雛の噂そのものが、後から誰かに作られた可能性もある。

「待って」

 美月が紫外線ライトを取り出した。

「途切れた場所の周囲に、別の液体で書かれてないか見る」

 照明を落とし、紫の光を壁へ当てる。

 澄花の鉛筆文字は黒いまま残り、その周囲には古い染みや手形が浮き上がった。

 続きの文章らしい反応は見えない。

 代わりに、壁の右下に小さな手の跡が浮かんだ。

 子どもほどの大きさ。

 七刻女学校の黒板へ押された赤い手形とよく似ている。

「これも八年前?」

 奈々香が問う。

「分からない」

 美月が光を近づける。

「古い汚れには見える」

 朔は手形を撮影したあと、壁全体をもう一度端から記録した。

 澪はそのカメラへ視線を向け、ふと違和感を覚えた。

 液晶の中。

 澄花の文章。

 現実と同じ。

 ただし。

「朔、止めて」

「何だ」

「そこ拡大して」

 〈殺された人の記憶を――〉と途切れた行の下。

 肉眼では何も書かれていない黄ばんだ壁。

 朔のカメラ映像にも、最初は染みしか見えなかった。

 しかし拡大すると、薄い黒い線がある。

「文字?」

 美月も液晶を覗く。

 朔が焦点を合わせる。

 現実の壁を見ても、何もない。

 カメラの中だけに、一行が映っていた。

〈まだ読まないで。〉

 澪の背中が冷える。

 カメラを少し動かす。

 文字も同じ位置に残る。

 奈々香が自分のスマートフォンを向ける。

 そこには映らない。

 朔のカメラだけだった。

 澪は胸元の手帳を強く押さえた。

 朔が撮っているものと、私たちが見ているものは同じじゃない。

「澪」

 朔がこちらを見る。

「何か知ってるのか」

 一瞬、言うべきだと思った。

 楽譜を見せるべきだ。

 だがその直前。

 奈々香が壁際で声を上げた。

「待って」

 全員が振り向く。

 彼女は、澄花の文章が途切れた場所ではなく、そのさらに右側を指していた。

「これ、さっきあった?」

 黄ばんだ壁紙のない壁面。

 鉛筆ではない。

 黒いインク。

 文字は太く、澄花の筆跡とも違っていた。

 澪は数歩近づき、指先が冷えるのを感じた。

 そこには一行だけ書かれている。

続きが知りたい?

 美月の顔が強張った。

「これは古くない」

 インクの表面に、まだ鈍い艶が残っている。

 蓮司が手袋をつけた指を近づけるが、触れない。

「乾いてない」

「いつ書かれたの」

 奈々香が部屋を見回す。

 隠し部屋を発見してから、六人は何度もここへ出入りしている。

 壁紙を剥がしたのはつい先ほど。

 澄花の古い記録が現れたあと、六人のうち誰も長時間部屋を離れていない。

「私たちが壁紙を剥がしたあとには、なかった」

 美月が言う。

「私も見てる」

 悠斗も頷いた。

 朔は胸元のカメラを操作し、壁紙を剥がした直後の映像まで戻した。

 画面の右側。

 問題の場所。

 そこには何もない。

 時刻を進める。

 六人が澄花の記録を読み始める。

 誰も壁へ近づいていない。

 さらに進める。

 奈々香が「ここ、何か書いてない?」と声を上げる数十秒前。

 映像が一度だけ乱れた。

 たった一秒。

 次の瞬間。

 壁に文字があった。

 誰かが書く場面は残っていない。

 六人の位置も変わっていない。

「人が書いたなら」

 蓮司が低く言う。

「カメラの死角から手だけ伸ばしたとしても、少なくとも誰かが気づく」

「壁の裏?」

 悠斗が壁を叩く。

 向こうは常世荘の外壁に近く、人間が立てる空間はない。

「また映像が欠けてる?」

「一秒だけ信号が乱れてる。でもファイルは切れてない」

 朔の声が硬くなる。

 澪は新しい文字を見つめた。

 続きが知りたい?

 質問だった。

 返事を求めている。

「答えないで」

 朔が言った。

 誰も声を出していない。

「音声を拾われてる可能性がある。こちらから情報を渡すな」

 その瞬間。

 黒い文字の下へ、細い線が一本増えた。

 誰も触れていない壁に、濡れたインクが横へ走る。

 六人は動けなかった。

 線の下へ、一文字ずつ現れる。

 じゃあ。

 見せてあげる。

 隠し部屋の古いテレビが、再び勝手に点灯した。

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