LOGIN〈八分十三秒を消した人が、ここにいる。〉
鉛筆を深く食い込ませた一文の前で、六人は誰も声を出せなかった。
隠し部屋の低い天井では古い蛍光灯がかすかに唸り、壁いっぱいに書かれた澄花の文字へ黄色い光を落としている。
壁紙の下から現れた記録は、一人の高校生が恐怖に耐えながら残した走り書きなどという量ではない。
日付、時刻、聞こえた足音、壁の中を移動した人物、二〇三号室の様子、返し雛について調べたことまで、空いた場所を探して書き続けた痕跡が三畳ほどの部屋を埋め尽くしていた。
「最初から読む」
蓮司の声は低かった。
妹が八年前に立っていた同じ床へ膝をつき、壁へ触れない距離まで顔を寄せる。
その横で朔がカメラを構え、美月は日付ごとに記録を整理するため手帳を開いた。
悠斗と奈々香も離れず、澪は壁際に立ったまま、澄花がこの場所でどんな順番で文字を書いたのかを追うように視線を動かした。
もっとも古い日付は、七刻女学校から澄花が生きて出てきた翌日だった。
人形を返しに来た。
でも、置いても戻ってくる。
短い文章の横には、二〇三号室の簡単な間取りが描かれている。
畳の中央に丸印があり、そこから押し入れ、台所、浴室へ矢印が延びていた。
丸印の脇には〈朝 押し入れ〉、〈昼 玄関〉、〈夕方 布団〉と書かれている。
「返し雛を置く場所を変えたのか」
悠斗が呟いた。
「たぶん」
澪は矢印を追った。
「どこに置いても、別の場所に戻った」
自分たちが目の前で経験したことと同じだった。
透明ケースへ封じても、現実では澪の布団へ移り、映像の中だけは元の場所へ残る。
八年前の澄花も、同じ現象に遭遇していたことになる。
蓮司が次の日付へ光を移した。
壁の中に男がいる。
学校にいた人と同じかは分からない。
文字の横に、細い人影が描かれていた。
背が高く、片手に四角いものを持っている。
顔には何も書かれていない。
「杏奈さんが言っていた管理人の息子?」
奈々香が訊く。
「時期が合わない」
蓮司は首を振った。
「杏奈が逃げたのは十二年前。その男はその直後に消えている。澄花がここへ来たのは八年前だ」
「別人」
美月の声が硬くなる。
初期の常世荘で女性を盗撮していた男がいなくなったあと、四年間、目立った失踪は途絶えている。
その後、澄花が二〇三号室へ現れた年から、壁の声や人形の訴えが再び始まった。
隠し部屋の設備も途中で更新されている。
誰かが最初の男が残した空間と方法を引き継いだという推測が、壁の記録によってさらに現実味を帯びていった。
澪はその下の文章を見つけた。
昨日の映像を見せてもらった。
私が覚えているものと違う。
息が浅くなる。
七刻女学校の映像。
八年間、何度も自分たちを惑わせてきた記録だった。
次の行は、少し大きな字で書かれていた。
映像では、私は一人で準備室に入っている。
違う。
誰かに押された。
奈々香が小さく息を呑んだ。
「私たちが見た未編集映像でも、押されてた」
「今夜見つけた映像はな」
朔が答える。
「警察へ提出された映像が同じだったとは限らない」
澪は朔を見る。
七刻女学校で見つかった古いビデオテープには、澄花が理科準備室へ押し込まれる瞬間が映っていた。
しかし、澄花がここで見せられた「昨日の映像」では、一人で準備室へ入ったことになっていた。
つまり八年前の時点ですでに、同じ夜について少なくとも二種類の映像が存在していたことになる。
「誰が澄花に映像を見せたの」
美月が問う。
答えは少し下にあった。
カメラを持っていた人が二人いる。
六人の呼吸が止まった。
澪の視線が、無意識に朔へ向く。
八年前の心霊研究会で撮影を担当していたのは神代朔だった。
集合写真でも、廃校へ入る映像でも、朔はカメラを持っている。
誰もがそう記憶している。
だが澄花は、二人いたと書いている。
悠斗が壁へ近づいた。
「その下」
さらに文章が続いていた。
一人はみんなが知っている人。
もう一人は、誰にも紹介されていない。
奈々香の顔から色が失われる。
「八人目……」
七刻女学校の校門を映した今夜の映像。
六人の生存者。
その後ろを歩く制服姿の澄花。
さらに木立の陰から現れ、七人を追って校舎へ入った黒い雨具の人物。
映っていたのは八人だった。
「澄花は八年前から見てた」
澪の声が掠れる。
「私たち以外の人がいたことを」
「なら、八年前に妹を押した人間も、そいつかもしれない」
蓮司が言った。
「腕時計だけなら七人全員が同じものを持っていた。服や体格も映っていない。外部の人間が時計を手に入れていたなら、俺たちの誰かに見せることもできる」
悠斗の声には、自分へ向けられていた疑いを押し返そうとする響きがあった。
「でも、その人物を誰が連れてきた?」
美月が静かに問う。
「誰にも紹介されてないなら、七人のうち誰かは知ってた可能性がある」
空気が冷えた。
外部の八人目が勝手に七刻女学校へ現れたのか。
それとも、心霊研究会の誰かが秘密で呼んでいたのか。
澄花だけが存在に気づき、ほかの六人は知らないままだったのなら、その人物は最初から見つからないよう動いていたことになる。
奈々香が朔を見る。
「撮影の手伝いとか、呼んでないよね」
「呼んでない」
「会社の人も?」
「高校生の頃だ。今の会社とは関係ない」
「機材を借りた相手は?」
朔はわずかに黙った。
「一部は中古で買った。三脚と予備電源は知人から借りたものもある」
「誰から」
「高校の卒業生だった映像関係者。だが当日は来てない」
蓮司が即座に名を聞き、朔は答えた。
蓮司は記録するだけで、それ以上は追及しなかった。
澪は壁の文字へ戻った。
日付が次へ進む。
文章は少しずつ乱れていた。
人形のことを調べた。
返し雛は、持ち主のところへ帰る人形じゃない。
「返す相手」を覚える人形。「返す相手……」
澪は呟いた。
持ち主へ戻るのではない。
元の場所へ戻るだけでもない。
返す相手を覚える。
その表現は、返し雛という名の意味を根本から変えていた。
美月が壁の続きを読む。
殺された人の記憶を――
そこで文章は途切れていた。
鉛筆の線が途中で壁を引っかき、斜め下へ長く伸びている。
書いている途中に手を掴まれたか、突然立ち上がったような跡だった。
「続きがない」
奈々香が周囲を探す。
同じ高さの壁。
床際。
机の裏。
どこにも文章の続きは見つからない。
「破られたノートの頁に書いた可能性もある」
美月が言う。
「それを誰かが持っていった」
蓮司は顎を強く結んだ。
妹が答えへ近づくたび、その先だけが八年間消され続けている。
七刻女学校の八分十三秒。
常世荘のノートの欠落。
テレビ映像の途中。
今度は壁の文章まで、もっとも重要な箇所で途切れていた。
「殺された人の記憶を、どうするんだ」
悠斗が低く呟く。
「集める?」
奈々香が言った。
澪は序盤から聞いてきた噂を思い返した。
返し雛は、殺された人間の記憶を集め、最後にその記憶を犯人へ返す。
その説明を誰から聞いたのか、八年前には曖昧だった。
もし澄花自身がここで調べ、まだ完全には答えへ至っていなかったのなら、現在流布している返し雛の噂そのものが、後から誰かに作られた可能性もある。
「待って」
美月が紫外線ライトを取り出した。
「途切れた場所の周囲に、別の液体で書かれてないか見る」
照明を落とし、紫の光を壁へ当てる。
澄花の鉛筆文字は黒いまま残り、その周囲には古い染みや手形が浮き上がった。
続きの文章らしい反応は見えない。
代わりに、壁の右下に小さな手の跡が浮かんだ。
子どもほどの大きさ。
七刻女学校の黒板へ押された赤い手形とよく似ている。
「これも八年前?」
奈々香が問う。
「分からない」
美月が光を近づける。
「古い汚れには見える」
朔は手形を撮影したあと、壁全体をもう一度端から記録した。
澪はそのカメラへ視線を向け、ふと違和感を覚えた。
液晶の中。
澄花の文章。
現実と同じ。
ただし。
「朔、止めて」
「何だ」
「そこ拡大して」
〈殺された人の記憶を――〉と途切れた行の下。
肉眼では何も書かれていない黄ばんだ壁。
朔のカメラ映像にも、最初は染みしか見えなかった。
しかし拡大すると、薄い黒い線がある。
「文字?」
美月も液晶を覗く。
朔が焦点を合わせる。
現実の壁を見ても、何もない。
カメラの中だけに、一行が映っていた。
〈まだ読まないで。〉
澪の背中が冷える。
カメラを少し動かす。
文字も同じ位置に残る。
奈々香が自分のスマートフォンを向ける。
そこには映らない。
朔のカメラだけだった。
澪は胸元の手帳を強く押さえた。
朔が撮っているものと、私たちが見ているものは同じじゃない。
「澪」
朔がこちらを見る。
「何か知ってるのか」
一瞬、言うべきだと思った。
楽譜を見せるべきだ。
だがその直前。
奈々香が壁際で声を上げた。
「待って」
全員が振り向く。
彼女は、澄花の文章が途切れた場所ではなく、そのさらに右側を指していた。
「これ、さっきあった?」
黄ばんだ壁紙のない壁面。
鉛筆ではない。
黒いインク。
文字は太く、澄花の筆跡とも違っていた。
澪は数歩近づき、指先が冷えるのを感じた。
そこには一行だけ書かれている。
続きが知りたい?
美月の顔が強張った。
「これは古くない」
インクの表面に、まだ鈍い艶が残っている。
蓮司が手袋をつけた指を近づけるが、触れない。
「乾いてない」
「いつ書かれたの」
奈々香が部屋を見回す。
隠し部屋を発見してから、六人は何度もここへ出入りしている。
壁紙を剥がしたのはつい先ほど。
澄花の古い記録が現れたあと、六人のうち誰も長時間部屋を離れていない。
「私たちが壁紙を剥がしたあとには、なかった」
美月が言う。
「私も見てる」
悠斗も頷いた。
朔は胸元のカメラを操作し、壁紙を剥がした直後の映像まで戻した。
画面の右側。
問題の場所。
そこには何もない。
時刻を進める。
六人が澄花の記録を読み始める。
誰も壁へ近づいていない。
さらに進める。
奈々香が「ここ、何か書いてない?」と声を上げる数十秒前。
映像が一度だけ乱れた。
たった一秒。
次の瞬間。
壁に文字があった。
誰かが書く場面は残っていない。
六人の位置も変わっていない。
「人が書いたなら」
蓮司が低く言う。
「カメラの死角から手だけ伸ばしたとしても、少なくとも誰かが気づく」
「壁の裏?」
悠斗が壁を叩く。
向こうは常世荘の外壁に近く、人間が立てる空間はない。
「また映像が欠けてる?」
「一秒だけ信号が乱れてる。でもファイルは切れてない」
朔の声が硬くなる。
澪は新しい文字を見つめた。
続きが知りたい?
質問だった。
返事を求めている。
「答えないで」
朔が言った。
誰も声を出していない。
「音声を拾われてる可能性がある。こちらから情報を渡すな」
その瞬間。
黒い文字の下へ、細い線が一本増えた。
誰も触れていない壁に、濡れたインクが横へ走る。
六人は動けなかった。
線の下へ、一文字ずつ現れる。
じゃあ。
見せてあげる。
隠し部屋の古いテレビが、再び勝手に点灯した。
午前二時五十分。 美月が自分へ告げられた死亡予定時刻を生きて越えてから二十分余り、六人は旧道脇の開けた場所で次の動きを決めかねていた。 奈々香の午前三時十三分まではまだ時間があるが、園村香苗を模した人形、偽造された薬剤、切断寸前のブレーキ配管と、罠は一つずつ見つけても終わる気配がない。 さらに美月へかかってきた声は、高校時代の澄花しか使わなかった言葉まで知っていた。 犯人が現在の行動だけではなく、八年前の七人の私的な記憶にまで入り込んでいるという感覚が、眠気より重く全員の身体へまとわりついていた。 悠斗は橋の欄干近くで煙草へ火をつけ、苛立ったように一度深く吸い込んだ。 警察への連絡は妨害されたままで、車を動かすことにも警戒しなければならず、何かを触れば罠かもしれない一方で、何もしなければ別の仕掛けを見落とす。 その窮屈さに耐えかねたように煙を吐いた瞬間、彼のスマートフォンが上着のポケットで鳴った。 画面へ表示された名前を確認した悠斗は、露骨に顔をしかめた。「今度は俺かよ」 発信者は〈黒瀬悠斗〉。 自分自身からの着信だった。 誰も応答しないうちに端末は勝手にスピーカーへ切り替わり、悠斗本人の声で〈黒瀬悠斗。死亡予定時刻、午前三時〇二分〉と読み上げた。 悠斗の表情は一瞬だけ固まったものの、奈々香のように怯える代わりに、すぐ怒りが恐怖を押し潰したように腕へ力を込めた。「ふざけんな」 時刻は午前二時五十分を少し過ぎたところで、残り十二分しかない。 悠斗はスマートフォンの電源を切ろうとしたが、朔が記録を残すため止めると、端末を握ったまま橋の中央まで歩いていった。 そこで胡坐をかくように路面へ座り、両手を膝の上へ置く。 顔には、犯人の思いどおりには一歩も動かないという意地が浮かんでいた。「だったら俺は何もしない! 車にも乗らない。倉庫にも入らない。電話も取らない。何も食わないし飲まない。ここから一歩も動かなきゃ、罠に誘導しようがないだろ」 理屈だけなら間違っていなかった。 奈々香は恐怖から車で逃げようとし、美月は仲間を助けるため医療バッグを開くことを読まれていた。 本人が自然に取る行動の先へ殺害手段を置くのなら、その行動自体を止めればいい。 澪も一瞬は悠斗の考えがもっとも安全に思えたが、朔だけは時計から目を離さなかった。「座っ
午前一時五十二分。 蓮司の車内で奈々香の手のひらに残った赤い文字を撮影していたとき、美月のスマートフォンが短く震えた。 通信妨害が続く山中では、通常の回線を通した着信など成立しないはずだった。 それでも画面は着信表示へ切り替わり、発信者欄へ〈早乙女美月〉という名前が浮かんだ。 美月は端末を持ち上げたまま、すぐには応答しなかった。 奈々香のときと同じなら、触れなくても勝手に通話状態へ切り替わる。 朔がカメラを向け、蓮司が時刻を記録し、澪は眠気の消えた奈々香の肩へ手を添えた。 三度目の振動が終わったところで、予想どおり画面が自動的に切り替わった。『早乙女美月』 スピーカーから流れたのは、美月自身の声だった。 救急現場で必要事項を確認するときの、無駄な抑揚を削った落ち着いた声。 それが本人の名を読み上げ、数秒の間を置いて続ける。『死亡予定時刻、午前二時二十七分』 車内の時計は一時五十二分を示していた。 残り三十五分。 奈々香が息を呑み、美月の横顔を見た。 美月はすぐ端末を伏せたが、声も呼吸もほとんど乱れていなかった。「美月……」「大丈夫」 奈々香の死亡予告を二度経験したあとだから、仕組みそのものに慣れたわけではない。 それでも自分へ向けられた数字を聞いた瞬間、美月が恐怖より先に何を狙われているのか考え始めたことが、澪には表情から分かった。 奈々香が「怖くないの?」と訊くと、美月は一度だけ視線を時計へ戻し、自分の脈を確かめるように手首へ指を当てた。「怖いよ。でも、怖がったときにどう動くかまで読まれてるなら、取り乱した方が相手の予定どおりになる」 奈々香は何も言えず、自分の掌へ残った赤い文字を見た。 美月は一度深く息を吐き、車外へ出る前に自分の持ち物から確認すると言った。 犯人は奈々香の車とバッグへ罠を仕込み、本人が自然に選ぶ逃げ道を殺害手段へ変えていた。 ならば救急救命の知識を持つ美月に対しても、彼女が危機へ直面したとき最初に手を伸ばすものが狙われている可能性が高い。 美月が最初に床へ置いたのは医療バッグだった。 七刻女学校へ入る前から持ち歩き、透の死亡確認にも使ったものだ。 止血用品、包帯、消毒薬、体温計、簡易の検査器具、常備薬が細かく仕切られた内部へ収まっている。 美月自身が補充しているため、本来なら一本増
午前三時十三分まで、二時間を切っていた。 園村香苗を模したシリコン人形が置かれた軽自動車を警察へ引き渡すための連絡は、依然として電波妨害に阻まれている。 山道を徒歩で抜ければ通信圏まで戻れる可能性はあったが、奈々香の死亡予定時刻を告げた者が、その行動まで見越して罠を置いていない保証はない。 蓮司は車と倉庫で見つかった仕掛けを見回したあと、逃げるのではなく、相手が午前三時十三分に何を起こすつもりなのか先に探すと決めた。「予言じゃないなら、予定表だ」 悠斗が低く言った。 奈々香を一時十三分に殺すため、犯人はブレーキ配管を切り、倉庫へ落下装置を用意していた。 二つとも見破られたあと、予定時刻だけが三時十三分へ変更されたなら、新しい罠をすでに準備しているか、離れた場所から起動できる仕掛けへ切り替えた可能性が高い。 死亡予告を恐れるだけでは、犯人が用意した選択肢の中を動かされ続けることになる。 奈々香は蓮司の車の後部座席へ移された。 二台とも遠隔遮断器を外したため電源は復旧していたが、ブレーキへ細工された奈々香の車は動かせない。 蓮司の車も走らせず、橋と電話ボックス、山林のいずれからも距離を取り、周囲を四方向から確認できる路肩へ停めた。 美月が奈々香の隣に残り、窓とドアを内側から施錠し、何があっても一人で外へ出ないよう約束させた。「眠ったら駄目?」 奈々香は疲れ切った顔で訊いた。 二度も死亡時刻を告げられ、髪を根元から引き抜かれたうえ、橋の上で長時間緊張を続けている。 美月は無理に起き続ければ判断力が落ちるため、短時間眠ること自体は問題ないと答えた。 ただし自分が必ずそばにいて、呼吸と意識状態を確認し続けると伝える。 澪、朔、悠斗、蓮司の四人は、電話ボックス脇から山林へ伸びるケーブルを再び辿った。 小型無線中継器は倒木の裏へ防水ケースごと固定され、遠隔信号で公衆電話のベルや音声再生装置を動かせるようになっている。 先ほどは構造を確認するだけに留めていたが、今度は朔が書き込み防止用の機器を介し、ノートパソコンから保存領域の複製を始めた。 犯人へ接続を悟らせないため、通信機能そのものは切らず、記録だけを読み取る。「ログが残ってる」 朔の指が止まった。 端末には日時と送信先を示す記録が並び、今夜の着信だけでなく、数日前から試験信号
午前一時十四分へ変わる直前、欄干の外側から伸びた白い指が奈々香の髪へ触れた。 最初は濡れた枝が風に煽られたのだと、澪の目は理解を拒んだ。 だが指は五本あり、その先には掌があり、細い手首が暗い谷側へ続いていた。 橋の外には人間が立てる足場などない。 それでも女の手は奈々香の後頭部へ回り込み、長い髪を根元からまとめて掴んだ。「奈々香!」 澪は反射的に彼女の左腕を引いた。 ほとんど同時に奈々香の身体が欄干側へ強く引かれ、首が不自然に後ろへ反る。 奈々香は悲鳴を上げ、両手で自分の髪を押さえたが、見えない何かに身体ごと持っていかれるように靴底が路面を滑った。 朔が右腕を掴み、美月は奈々香の腰へ腕を回した。 悠斗と蓮司もすぐ駆け寄り、欄干から距離を取らせるよう全員で橋の中央へ引く。 澪の掌へ奈々香の爪が食い込み、朔の靴が濡れた路面で一度滑った。 髪を引く力は一瞬だけさらに強くなり、ぶちぶち、と嫌な音が奈々香の後頭部から聞こえた。 次の瞬間、力が消えた。 奈々香の身体は勢い余って橋の中央へ倒れ、澪も膝を路面へついた。 朔は奈々香を支えるより先に欄干へライトを向け、美月は倒れた彼女の頭を両腕で守る。 白い手はもうどこにもなかった。「動かないで。頭打った?」「髪……髪が……」 奈々香は泣きながら後頭部を押さえた。 美月はすぐ手袋をつけ、頭皮を照らして傷を確認する。 頭蓋部に打撲らしい腫れはないが、右後頭部だけ髪が不自然に薄くなり、赤くなった頭皮へ小さな出血点が幾つも並んでいた。 路面には髪が落ちていた。 十本や二十本ではない。 長い毛髪が数十本、束になって欄干近くへ散らばり、その多くに毛根がついている。 何かへ絡まった髪が自然に抜けたのではなく、強い力で根元から引き抜かれた痕跡だった。「誰かいた?」 悠斗が欄干から下を照らす。「いない」 蓮司も別角度から橋の側面を確認した。 コンクリート欄干の外側はほぼ垂直に落ち、下には十数メートル先の河原がある。 橋脚へ点検用の細い突起はあるものの、人間が片手でぶら下がりながら奈々香の髪を掴める位置ではない。 ロープを使えば可能性は残るが、欄干にも橋面にも固定具や擦れ跡は見当たらなかった。 朔はすぐに橋下へ続く斜面へライトを向けた。 先ほど透らしき人物が現れた河原にも人影はなく
〈死亡予定時刻、午前一時十三分〉という自分自身の声を聞いてから、奈々香はまともに呼吸ができなくなっていた。 美月が肩へ手を置いてゆっくり息を吐くよう促しても、彼女の視線はスマートフォンの時計へ吸いついたまま離れない。 午前零時三十二分。 残り四十一分という数字が一つ減っただけで、奈々香は喉を押さえ、橋を出ると言って車へ向かって歩き出した。「ここにいたら死ぬ。私、帰る」 悠斗が追いかけ、蓮司も橋を離れるなら六人一緒だと制した。 誰も奈々香を一人にするつもりはなく、死亡予告が犯人の誘導である可能性を考えれば、指定場所から逃げることさえ罠になり得る。 それでも奈々香は首を振り、今いる場所こそ殺されるために選ばれた場所だと言いながら、震える手で車のドアを開けた。 運転席へ座った奈々香がスタートボタンを押すと、セルモーターすら回らなかった。 警告灯だけが一度点き、すぐにメーター全体が暗くなる。 奈々香は「なんで」と呟きながら何度も始動を試したが、結果は同じだった。 朔がすぐに運転席から降ろし、車体へ触れる前に周囲を撮影する。 蓮司が自分の車でも始動を試したが、そちらも反応せず、二台ともほぼ同時に電気系統を失っていた。 悠斗がスマートフォンを取り出して警察へ連絡しようとすると、アンテナ表示は消え、圏外になっている。 美月、蓮司、澪の端末も同じで、数分前まで使えていた位置情報共有も切れていた。 山間部とはいえ、橋へ到着した時点では弱いながら通信できていたため、自然な電波状況の変化だけでは説明しにくかった。「妨害されてる」 朔は山林側へ隠されていた無線中継器とは別に、広い帯域へ雑音を流す小型の妨害装置がある可能性を指摘した。 車の始動不能まで同じ設備で起こせるとは限らないが、少なくとも外部との連絡を切り、六人を橋周辺へ留める意図は明確だった。 彼は自分の端末を操作しながら、通信が完全に失われた時刻と奈々香への死亡予告が流れた時刻を並べ、偶然にしては近すぎると呟いた。「じゃあ、さっきの電話は?」 奈々香が自分の端末を差し出した。「圏外になる前にかかってきたんでしょ。誰から?」 朔は着信履歴を開き、しばらく画面を見たあと眉を寄せた。 そこには白石奈々香からの着信が存在しなかった。 通話記録にも、不在着信にも、午前零時三十一分の発信は
午前零時十三分を過ぎても、河原に相馬透の姿が戻ることはなかった。 濡れた石の上には、彼が使っていた黒いヘッドフォンと、細長く伸びた磁気テープだけが残されている。 美月は手袋を二重にしてからヘッドフォンを拾い、朔が横で位置と状態を撮影した。 磁気テープには直接触れず、蓮司が長いピンセットで別の証拠袋へ収める。「これ、透のです」 美月はヘッドフォンの内側を懐中電灯で照らした。 左側のヘッドバンド裏に、浅い三本の傷が並んでいる。 高校時代、透が音響機材を机から落としたときについたもので、本人が気にせず使い続けていたため、美月も澪も何度か見たことがあった。 イヤーパッドの裂け目を白いテープで補修した跡まで一致しており、似た機種を用意しただけとは考えにくい。 澪は河原の暗がりを見た。 七刻女学校の放送室で透が倒れたあと、このヘッドフォンは彼の荷物と一緒にあったはずだった。 その遺体が消えた際に所持品まで持ち出されたのか、誰かが警察の封鎖前後に回収したのか、それともさらに別の経路で戻り橋へ運ばれたのか、判断できる材料はない。 確かなのは、死んだと確認した友人の私物が、今夜ここへ置かれていたことだけだった。「触った人間の痕跡が残ってるかもしれない。現場では最低限にする」 蓮司の言葉に、美月は頷いた。 だが朔はヘッドフォンを袋越しに見るうち、右側のハウジングだけわずかに厚みが違うことへ気づいた。 通常なら左右対称に近いはずの外装が、片側だけ一ミリほど浮いている。 落下で歪んだ可能性もあるが、螺子頭には一度開けたような細い傷があった。「中に何か入ってる」 悠斗が顔を寄せる。「ここで開けるのか?」「全部は開けない。外から確認できる範囲だけ」 朔は蓮司と警察へ連絡を入れ、現地保存を優先しながらも、現在進行中の危険につながる情報が隠されている可能性を説明した。 許可を得たうえで、車から精密工具を持ってきて右側の外装を慎重に外す。 内部の配線には大きな改造はなかったが、吸音材の裏へ、薄い黒色のメモリーカードがテープで固定されていた。「また記録媒体」 奈々香の声が小さくなる。 返し雛の内部から出てきた特殊規格のカードを思い出したのだろう。 朔は今回のものは一般的な小型規格で、八年前にも市販されていた形式だと説明した。 透は音響機器の